プロゲーマーの梅原大吾さんが1度は介護職に就き、その後ふたたびゲームの世界へと舞い戻った理由
日本や世界に大きく影響を与える「道」を追求する人物をクローズアップするメディア、「アルファポリスビジネス」のこちらの記事より転載。
世界各地で繰り広げられる格闘技ゲーム大会で、幾多の優勝を勝ち取ってきた、プロゲーマーの梅原大吾さん。15歳で日本一、17歳で世界一の座を獲得し、観客を魅了する圧倒的なプレイスタイルに、ついたあだ名は「The Beast(=野獣)」。その攻撃的な称号とは裏腹に、幼いころより人知れず、ある「悩み」を抱えていました。一度は勝負の世界を去り、自分なりの道を模索する中で、再びゲームの世界に舞い戻ってきた、世界最強と称されるプロゲーマー梅原大吾誕生までの軌跡を伺ってきました。
梅原大吾(うめはら・だいご)|プロゲーマー
1981年、青森県生まれ。11歳の時、対戦格闘ゲーム『ストリートファイターⅡ』に出会い、ゲームの世界へ。15歳で日本一、17歳で世界大会を制するも、一度は勝負の世界から離れ、さまざまな経験を積んだのち、再びプロゲーマーとして返り咲く。(現在、レッドブル、Twitch、HyperX の3社とスポンサー契約を交わしている)。その華麗なプレイスタイルからアメリカでは”The Beast(野獣)”と呼ばれる。梅原流と称される勝負に勝ち続けるための信念や生き様は、ゲーム業界の枠を超え、多くの人々に支持されている。講演・コンサルタント、大会・イベントなどの活動状況を公式サイト「DAIGO THE BEAST」で発信中。
「自分だけ気持ちいいのは性に合わない」世界一のプロゲーマー 勝負へのこだわり
── 数々の格闘ゲーム世界大会を制してらっしゃいますね。
梅原大吾氏(以下、梅原氏):一昨日、『Red Bull Battle Grounds 2016』でシアトルから帰ってきました。今年は海外の大会だけで16回。国内も含めると年中どこかで戦っている感じですね。一度きりの勝ちなら運や要領で実現できますが、勝ち続ける「強さ」を手に入れるには、それなりのやり方が必要になってきます。昨日より今日、今日より明日と、その時々で、次の大会につながるような発見を、と考えながら試合に臨んでいます。「一日ひとつだけ強くなる」ことで、勝ち続けていくことへのプレッシャーに飲み込まれることなく、案外力まずに楽しんでやっています。
勝って世界一になることは、プロとして当然大事なことなんですが、それと同時に、いかに観客が「楽しんで」くれるかが、ぼくにとっては重要で…。たとえば、飲みの席で、いくら酒が好きでも、自分の話ばっかりする人とは飲んでも楽しくないですよね(笑)。それと一緒で、いくら強くても、そんなゲームばかり見せられたんじゃつまらない。
ぼくは、自分が勝つことでシラけてしまうプレイだけはしまいと心がけてきました 。自分が気持ちいいことしかしないのは間違っているよなと、昔から思っていて。それは場所が近所のゲームセンターから、世界大会になっても一緒でした。なぜならゲームこそが、自分の唯一の居場所だったからです。そこで、応援してくれてきた人たちを楽しませなければ、ぼくが今こうしてゲームをしている意味もないとさえ思っています。
一度ゲームの世界から去り、こうして再びこの世界で生きていけるのも、周りで応援してくれる人たちの存在があったから、そしてこの「道」を用意してくれたからこそなんです。多くの人の支えなしでは、今の自分はあり得なかったと思っています。
「男なら世界一を目指せ」誰にも言えないプレッシャーを抱えて
梅原氏:最初に、ぼくを応援してくれたのは家族でした。ぼくの生まれは母と同じ青森県なのですが、姉と親父は東京です。親父はちょっと面白い人で、旅行中に母の実家である青森が気に入り、突然「いいところだな、住むぞ!」となったらしく、仕事も辞めてしばらく青森に住むことに。その時に生まれたのがぼくでした。
行ったのも気まぐれ、帰るのも気まぐれで、ぼくが8歳の時に、親父が「そろそろいいかな」とか言って、それからはずっと東京です。七つ離れた姉は、高校受験と重なるタイミングだったらしく、大変な思いをさせられたみたいで…。
── 個性的なお父様だったんですね。
梅原氏:そういう風変わりな親父を筆頭に、それに付き合ってしまう看護士の母、優等生タイプの姉に、正反対のやんちゃ坊主という個性的な梅原家でしたが、奇跡的に家族仲はよかったですね(笑)。
何でもよくできた姉のおかげで、「自分は(優等生にならなくても)いいかな」と勝手に考えていて、好きなことばかりして過ごしていました。一度姉に言われたのは、「お前が迷わずに好きなことに進めたのは、 私のおかげだぞ」と。確かにその通りだと思っています。
ぼくがゲームをはじめるきっかけになったのも姉で、当時高価だったファミコンを買ってもらうために、「ふたりで一緒のクリスマスプレゼントにしてもらおう」と結託したところからですね。「あんたも欲しいでしょ」って、そそのかされたも同然でしたが(笑)。ただ、買ってもらったソフトは普通に『スーパーマリオブラザーズ』で、いわゆるゲームマニアでもなかったし、11歳で『ストリートファイターⅡ』に出会うまでは、普通のゲーム好きな子どもでした。
そのころは、将来世界一「ケンカが強い人」「大発明をする偉い人」「世の中を楽しませる面白い人」のどれかになれたらいいなと思っていました。これは親父の影響で、ぼくが物心ついたときから、「なんでもいいから、誰にも負けないものを身につけろ。男なら世界一になれ」と、繰り返し言われていたからなんです。
── 唯一無二になれ、と。
梅原氏:そんなこと言われてもガキのころだから、どれだけの選択肢があるかなんてわからなくて、親父に「何になればいいの?」と聞くわけです。ところが、返事は「それは自分で考えろ」「お前が見つけた道を全力で突き進むなら、いくらでもサポートしてやる」と、決して何かを押し付けるようなことはしませんでした。
普通子どもって、「一日楽しかったな、終わり。めでたしめでたし」で、全然OKなはずなんですけど、自分の場合は、「世界一」の存在にならなければいけないのに、「ああ、今日も”ムダ”に一日を過ごしてしまった」と、いつもまでたっても進むべき道が見つからないことに罪悪感を覚える毎日でした。
また、明確な期限はないけれど、人生は有限だからなるべく早くからスタートを切った方がよいいということだけは、子どもなりに考えていたんです。親にも先生にも友達にも言えない、早く走り出したいのに走れないような、誰にも言えないモヤモヤした時期でしたね。
── しかも、自分の走るコースがどこにあるのかすら、わからない。
梅原氏:未来の「世界一」になる人間は、もうすでに自分の道を走っているはずで、自分の方はまだ何にも打ち込めてない、と無駄に焦ってました。そういうモヤモヤの中で、自分の感性にぴたりと当てはまったのが、対戦格闘ゲーム『ストリートファイターⅡ』だったんです。
その世界観に惚れ込んで、それから飽きることなく毎日毎日、正月以外はゲームセンターに通う日々が始まりました。ガキのころは、台風でもびしょびしょになりながら通い詰めてました。「ゲームのためだったらたいしたことない」と、ちょっとおかしいくらいハマっていましたね(笑)。
でも実は、このときの心境は、「世界一への道が見つかった」ではなく(子供ながらにもまさか”遊び”のゲームで食っていけるとは思っていなかったので)、親父の言う「世界一」の存在とは、何か違うと思っていました。
── 一方で、日本一の後は世界一と、着実にタイトルを獲り続けていくわけですが。
梅原氏:ゲームがただの遊びとして見られていた中、17歳で世界一になった時も、「親父が言っていた世界一」って、このことじゃないよな、と優勝して嬉しい気持ち反面、どこか冷静に考えていました。親父からは、ゲームに関して干渉されることは一切ありませんでしたが、同時に褒められることもなかったんです。世界一を獲って「やっぱりこれは何か別の道を探さなきゃ」と、いよいよ本気で考えはじめましたね。
自分にはゲーム以外に何もないのか」 トッププレイヤーの知られざる苦悩
梅原氏:世界一になってひと区切りついたこともあり、ゲームの他に自分にできることを探しはじめました。ところが、周りを見渡してもゲーム以上に熱中できることが見当たらなかったんです。
何かを極めようとするには、タイムリミットが迫っている。でも、ゲーム以外に向かうべき道が見つからない。ダブルの焦り。毎日、焦ってばかりで気分も最悪でした。ゲームばかりで、何ひとつ社会で役立つことは身につけずにきてしまったので、このままでは「ヤバいんじゃないか」という自覚はありました。それで、2004年カリフォルニアで開催された格闘ゲームの世界大会『Evo2004 ストリートファイターIII 3rd』を境に、もうゲームからは足を洗おうと決めたんです。
── ラストの試合は、のちに動画投稿サイトで2000万回以上再生され、「背水の逆転劇」として話題になりました。
梅原氏:そのプレイ動画のことは全然知らなくて、数年たって人づてに知ったんです。とにかく自分の気持ちは、次に進みたいということだけだったので、後のことは気にも留めていなかったんです。ちょうどアルバイト先の飲食店で、同い年の同僚3人が大学卒業と就職で辞めていったのも、自分が次へと進む決心を後押ししてくれました。
このアルバイトも、自分を変えるための準備のようなもので、それまで、自分はすごく人見知りで、知らない人と話すのがとても苦手だったんです。「このまま一生これじゃいかんだろうと」と、それまで避けてきた接客業をあえて選びました。手と声を震わせながら、とりあえず勢いに任せて、面接の電話をかけて…(笑)。
世界一を目指す一方で、得意なことだけをやっているのは、自分では「甘えてるよな」、と考えていました。人並みの苦労や悩みも生きていくうえで絶対必要だし、経験していたほうがいいと思ってたので。とにかくこれで、自分の中でゲームの道は終了、でした。
── 勝負の世界を離れて、次に進んだのは?
梅原氏:「勝負」とは無縁の、介護の仕事でした。親が医療関係だったこともあり、高齢者に馴染みはあったものの、なんとなく選んだ道だったんです。ところが、介護をやると決めた時、自分の進む道に対してはじめて親の喜ぶ顔を見ることができました。
喜んでくれたのは親だけじゃなく、施設に入所されている方々も同じでした。勝負の世界では「勝つ」ための行為が、結果的に誰かを悲しませてしまう可能性がある。だけど、介護の世界は、直接誰かを手助けするのが仕事です。自分の行為が、悲しみではなく、喜びや笑顔を生み出す。そんな、もしかしたら普通の人にとっては当たり前のことに、感動してしまいました。
しかも、感謝されるだけでなくお給料まで貰える。これも「働いてお給料をもらえるのは当然」と考えるのかもしれませんが 、感謝されたうえにお金をもらえることに、何度も何度も「いいのかな」と確認してしまうぐらい、今までに体験したことのない感覚だったんです。
こんな喜びを感じられるなら、世の中でキツいと言われる介護の仕事も、全然苦になりませんでしたし、こうやって日々安らかな気持ちで暮らしていけるのなら、と幸せでしたね。
また、介護の仕事をする中で、喜びだけでなく、自分は「人」が好きなんだということにもあらためて気がつきました。最初は『ストリートファイターⅡ』の世界観にハマってゲームをやっていたわけですが、それをずっと続けられたのは、目の前に「人」がいたからなんですね。どうして、こういう動き方、戦い方をするんだろうって、目の前の対戦相手の心のうつろいみたいなものを、プレイを通して、いつも考えていました。
「人」を活かし、活かされる。再びゲームの世界へ進んだ理由
── 「人」が、梅原さんのキーワードだったと。
梅原氏:奇しくも悩み抜いた勝負の世界と離れたところで、気づかされました。充実した介護の仕事を続けていたある日、友人からゲームの誘いを受けました。ちょうど10年ぶりぐらいに、ストリートファイターシリーズの新作が出たんです。自分にとってゲームは過去のもの、と誘われても断っていたんです。ところが、「一回でいいから」と、友人があまりに誘ってくれるので根負けしてやることに。
久しぶりにコントローラーを握った時に、不思議な感覚が蘇りました。自由自在に、画面上に動きが反映できる。自分の体が馴染んで、反応してくれる感覚。ゲーム=勝負だった自分にとって、単純に「気持ちいい」という感覚で向き合えるぐらい、自分の中でゲームとのちょうどいい距離ができていたんです。
── そこから、どうやってプロゲーマーになっていくんでしょう。
梅原氏:実はそのころに、例の「背水の逆転劇」のプレイ動画を見て、ぼくの存在を知った海外プレイヤーの間で、ネット上で「ウメハラが、ゲームを再開した」と広まってしまったんです。だんだん大きくなる声に押されて、ついにカプコンオフィシャルのイベントに招待されてしまう事態に。最初は、一度離れた世界で脚光を浴びることに躊躇し、出場するかしないか、めちゃくちゃ悩みましたが、人から求められることがやっぱり嬉しくて、「じゃあ記念に」と参加したら、全勝。そしてまた、世界大会の舞台へと進んでしまいました。
その大会でのプレイと、優勝という結果を見ていた、MADCATZ(マッドキャッツ)というビデオゲームコントローラーなどを手がける米国のメーカーが、「とことん打ち込められる環境を提供しよう」と言ってくれて…。
あまりに急な展開だったし、ほんのちょっとのつもりでしたから、最初は何度も断っていました。ところが、今マネジメントをしてくれているCooperstown Entertainment (クーパーズタウン・エンターテイメント)という会社の方から熱いメッセージをいただいたこともあって、もう一度プロゲーマーに「なる人生と、ならない人生」を考えたんです。
「やって失敗したとき、自分は嫌なのか?」「うまくいったら嬉しい」。
どんな人生もうまくいく保証はない。頭の中にモヤモヤが残る人生は、ガキのころに十分味わった。だったらチャレンジしようと。それでプロゲーマーとしてスポンサー契約を結ばせていただいて、ゲームの世界に再び、今度はプロとして戻ってきたんです。
好きなことに情熱を傾けてもいい 可能性を活かせる社会にするための新たな挑戦
── 周りの熱意に推され、決断をしたということですね。
梅原氏:結局、ぼくのすべての動機ときっかけは「人」でした。対戦の様子をまわりで眺めて喜んでくれたゲームセンターの友人たちもそうですし、ストリートファイターの新作に誘ってくれた友人もそう。彼の言葉がなかったら、再びコントローラーを握ることもなかったと思います。動画を見て応援してくれる人、 レッドブル、Twitch (ツイッチ)、HyperX(ハイパーエックス)などのスポンサーや、熱い言葉で後押ししてくれ、今はマネジメントしてくれているCooperstownなど、社会的な道を開いてくれた人たち。
今まで、いろいろな方がサポートしてくれたおかげで今のぼくがいる。まだまだやりたいことはたくさんあるから、「もう何にもいりません」とは言わないけど、少なくとも「自分だけ」はもうお腹いっぱい。
── 一人勝ちはしない 。
梅原氏:はい。自分ひとりだけがいい思いをするのは、ぼくの性に合わない。自分がたまたま、プロゲーマーという道を用意してもらったから、こうやってお話ししたり、『勝負論 ウメハラの流儀』(小学館新書)や『1日ひとつだけ強くなる』(KADOKAWA/中経出版)として、書籍でもメッセージを届けたりすることもできているわけです。なので、多くの人に活かされてきた自分の役割もまた、「人を活かす」ことだと思っています。
「勉強ができる、足が速い」以外にも、世の中にはもっとたくさんの価値観があるんじゃないか。「今」という時間軸だけで、自分の特技を社会に活かすことを諦める必要はないんじゃないか。そうしたメッセージを、プレイや講演活動などを通して発信することが、プロゲーマーである自分の、「今」一番の感心ごとであり、戦いであり、進み続ける原動力になっています。
アルファポリスビジネス編集部 道を極める 第10回 梅原大吾さん「世界を制するプロゲーマー梅原大吾の 勝ち続ける「野獣」の掟」 | アルファポリス – 電網浮遊都市 –
(インタビュー・文/沖中幸太郎)
元記事を読む
関連記事
子供とゲーム 真剣勝負が正解 |
Macでもゲームしたい! |
【UMA好きですか?】あの月刊ムーがUMAキャラゲームを監修 |
- ブーストマガジンをフォローする
- ブーストマガジンをフォローするFollow @_BoostMagazine_